ざっくりとした現状&契機の説明。

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当人達は「まぁ、人生こんなもんでしょ」とは思っていますが、傍から見ると
『不遇すぎて涙が出る』レベルだそうです。(学生時代の友人や、当時交流のあった教諭陣 談)

・・・まぁ、ほぼ天涯孤独状態(もう一人居るので、”孤独”ではないですが)ってのは、確かに生き辛い
社会なのは認めます。
(追記部分はちょっと長めです)


4コマ内での表記はさておき、今のところ判明している社会的不都合や、やや特異な生育環境は
大体以下の様な感じになってます。

・17年前(多分中学生だったはず)に、父親が急死
 何となくしか覚えていないのですが、休み時間にぼけっとしていた時、突然担任の先生に呼ばれて、
 校門までついて行ったら、母親からその訃報を聞かされて、ビックリしている間にタクシーに乗せられて、
 冷たくなってる父親を触ったという、なんとも現実離れした記憶と感覚が残っています。

 一応2週間前から入院していたので、病死だという扱いだと思うのですが、その経緯もよく判らず、
 母親の話から[明らかに体調悪いから病院で検査]→[かなり進行した癌だと発覚]→[すぐ入院して手術]→[術後2日目で死去]
 という、なんだか医療事故とか含まれているんじゃないか?と今だと思えてならない状態でした。
 他にも胡散臭い事実が後に発覚するのですが、それは長くなりすぎるのでまたの機会。

・7年前(専門学校(高専)を出て3年目)に、母親が他界
 こっちが現在の状況の大きなトリガーになりましたねぇ・・・
 ↑の事態後、ずっと育ててくれた母親が、自分達の就職直後に末期癌だと発覚した事からスタートです。
 丁度母親から「便秘が酷いし、何か下血があるっぽい」との話を聞き、病院に行った方がいいんじゃないか?
 と持ちかけ、検査してみたところ、「S状結腸癌 ステージ4」と、たまたま付き添いでついて行った自分が
 医者から聞かされて、人生で初めて本気でうろたえたのを覚えています。(病院のトイレで一人号泣しました・・・)
 この事実そのものは、この宣告の2年半後に母親が亡くなるまでの間、ずーっと自分(+弟)だけの秘密になりました。
 不幸中の幸いとして、当時主治医となった人が、日本の外科医の中でも、スペシャリストとして名前が挙がるクラスの人
 だったため、母親も多少安心して手術に望めた事でしょうか。
 (主治医の本来の専門は腹腔鏡下の手術で、こちらの腕は世界有数だと後に発覚。実際の手術の際も、腹腔鏡で出来ないタイプだったので残念だったと、母親には気さくに話していたのが印象深かったです)
 手術は2時間ほどで無事成功(ついでに輸血無しで出来た!と報告を受けました)。・・・だったのですが、そのとき立ち会った自分達に「切除したS状結腸」を見せに来たのが一番ビックリしました;
 病巣部を切開しながら懇切丁寧に説明してくれたのは良かったのですが、お陰様でその日は肉を食べられませんでしたよ><

 その後は暫らく抗がん剤の投与で何とか持ちこたえていたのですが、術後2年を過ぎた辺りで再発+元から
 悪くしていた腎臓が片方ほぼ機能していない状態になってしまったため、”腎ろう”を建設して難を逃れる事に。
 当時母親には、「長らく悪くしていた腎臓が、遂にギブアップした」と伝えました。母親も多分それで納得してた・・・はず。
 母親は腎盂炎を過去2回起こして、2回目は一時危篤状態まで進んだ事があるので、半分は合ってるというのも功を奏した模様。(ちなみに2回とも、超人的な回復力で1週間以内に退院してきましたが・・・)
 
 こちらの手術後、実際には殆ど自宅に帰れず、入退院を繰り返し、最期の2ヶ月程度は、自分と弟が一旦休職し、
 1日交代、24時間体制でずっと病室に付き添っている形になっていました。
 (この最中、当時勤めていた会社から酷い扱いを受けた事が、今でも自分のトラウマのひとつになっています)

 母親が亡くなった日(朝3時15分だったかな?)も、自分が丁度付き添い番だったので運良く看取る事が出来ましたが、目の前で衰弱していく母の姿を見ても正直まったく現実感が無く、
 危篤の報を受け間一髪立ち会えた弟と共に、医師による死亡診断中、病室横の階段に座り、
 ダイ「あぁ、とりあえず色々とお疲れ様。自転車で病院までダッシュはきつかったろう?」
 エイ「さすがに疲れたけど・・・一段落といえば一段落だね」
などと、寝ぼけた感じで葬儀準備まで待機していた事を記憶しています。
 (ついでに、病院の地下1階に入ると、何となく寒気がする理由も判りました(汗)
 こちらは幸い伯父、叔母が葬儀周りを一手に引き受けてくれたので、泣きっ面に蜂状態にはならずに済みました。
 (人生で最初に体験する葬儀が、母親の(しかも喪主は自分!)だったので、手伝いが無ければ本当にどうして良いやら判らなかったです:どうも我が家は西本願寺側の浄土真宗だったということもその時に初めて知りました(ぉ)

 
 その後は四十九日の法要も無事に終えて、何とか二人だけで生きていくことになりましたが、『母親に恩返しをする』
 という大きな社会的目標を失ったのと、その前後で会社から随分とコケにされた(忌引の手続きが遅いという理由について、”仕事とどっちが大事なんだ!”と頭ごなしに怒られた:勿論家族の方が大事に決まっているだろバカ野郎!と、本気で怒りましたが。)
 経緯 & 理不尽に増える仕事量から、仕事そのものへのやり甲斐、社会構造への疑問が頭から離れなくなってしまい、6年半(今だとほぼ7年に近いか)前に一度休職。それからは時間が解決してくれるものと思い、何とか復職訓練などをしていましたが、そこでもぞんざいな扱いを受け、止む無く退職する事になりました。
 (この時の復職訓練ミスは、明らかに会社側の手落ちだったため、自己都合ではなく会社都合退職になりましたが、全然嬉しくありませんでした・・・)

 丁度そのときに浮かんだ、理不尽さ一覧
 ・東証一部上場記念!とか外部にはのたまっていながら、社内では月100時間残業が常態化
 ・半期毎の経営陣の訓示で「死ぬ気で頑張れ」という、時代錯誤にも程があるだろうという発言
 ・しかしそれを当たり前だと思っている、自分以外のほぼ全社員
 ・事故で足を骨折した社員が、事故後3日目で出社。理由は「仕事が忙しいから」
 ・どう見ても形だけの社内論文なのに、昇進条件で提出必須になっている上、完全手出し(残業扱いにすらならない)
 ・当時問題視されていた派遣社員の理不尽な使い方(正規社員3:派遣社員7とかどう考えても異常、かつ採用する社員の能力が、現場を全く考慮していないため、正規社員の仕事に支障が出る)

 他にもありますが、なんだか書いていて哀しくなってきたのでここまでにします。
 余談ですが、自分が休職を願い出た1週間後に、追加で2名、同じ所属の人間から休職者が出て、さすがに会社内が揺れたそうです(主に労働基準法的な意味合いで)

 そんなこんなで、現在も仕事に就くという概念をどうしても持つことが出来ず、社会側からは”精神障害者”として扱われております。(2011年に障害者手帳取得:精神3級)

 どうせ社会側から障害者扱いされてしまったのなら仕方ない。と多少開き直って、現在は改めて自己の生育環境や社会環境との不整合の理由などを調査している最中です。勿論このブログもその一環。
 ・・・しかし、両親共に既に他界、親類縁者もすでに高齢&元々自分達とは疎遠なため、自分の生い立ちすら探るのに一苦労という有様。
 ちなみにこの辺の調査に関しては、追々4コマの続きで、「成長編」とでも銘打って描いていこうかな?と思っています。

 ・・・4コマの〆でも書きましたが、本当にこのまま生き延びられるのだろうか?と心配しております。
 (現在はある程度社会庇護の下にいるため、つつましく生活する事はできています)

試作D型

試作D型 について

名前:イナムラ試作D型:通称ダイ
製造年:MCMLXXXIとどこかに書いてある
誕生日:そろばんの日と覚えている
性別:男性をイメージして設計された

主な特徴:一卵性双生児の兄を生業とするサイボーグネズミ。
特技は並列作業と体調不良。
思考回路はスコアが非常に良く、複雑な処理も行えるが反面回路的にはセーフティシステムが脆弱で過負荷状態に陥りやすい。
兄の威厳がそうさせるのか、弟のE型より体格が少しだけ良い。
最近重度の対人不信を抱えていることがわかった。

メインタスクとして、お絵描きと日常行動、人生の見つめなおしを地雷除去作業のようなギリギリさで実行中。