うっすら覚えている記憶を、必死に繋ぎなおして。

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父親よりはマシですが、それでも少ない情報量・・・

今回は母親について覚えている限りのことを残してみたいと思います。
4コマの作成が去年12月に一旦通常イラストモードに入った関係で少し滞っておりましたが、何とか完成までこぎつけられました^^;

・・・母親のプロフィールについて少し書こうとして、ふっと思い出しました。
父親の生年月日って、全く記憶に無いぞ;

母親とより4歳年上だったと母が話していたということしか覚えていません。
そこから推測すると1942年(43年の可能性もある)生まれだったのではないかと踏むのですが、
何で実の親に対して推理小説みたいな真似をしなければならんのだ;

ー話がよれました。
母親の経歴自体も、父親と並んで不明な点が多いのです・・・
少なくとも若い頃の話は酒が入った時にポツポツと話してはくれましたが、子供が面白がるような内容に
意図的に留められていたんじゃないかという気が、現在ではしてなりません。
肝心の父親との馴れ初めとかは通算で1回話してくれたかどうかというあやふやさ。

母親の両親(我々からは祖父母にあたる)や親族筋については大して触れてもくれなかったなぁ。
興味が無かったのか、何か因縁でもあったのか・・・

母親の記憶ですが、長い間時間を割いていた趣味に、植物栽培がありました。
少なくとも自分達が生まれる少し前から育てていたシャコバサボテンが現在も自宅に存在していますし、
クンシランや月下美人の花を毎年観賞できたり、斑入りのベンジャミンの栽培に何年も悪戦苦闘していたり、
母の日に贈ったカーネーションを露地栽培で増やしてみたりと、結構幅広くやっていた記憶があります。

後はタバコ(マイルドセブン限定)とお酒が大好物で、伯父をして、「今ではビール大瓶3本も飲めなくなったのは、確かに酒に弱くなった」との事。
・・・弱くなったとはいえ3本も空けられるのって、それだけでも強い気がするけれど;
まぁ、タバコは別として、お酒は週末にしか飲まなかったので、そこまで大酒のみという印象は無かったですねぇ。

後は自分達と比較するのもどうかと思うのですが、とてつもなく顔が広かったのを覚えています。
生来の気性なのか、人と友人関係になるのがとてつもなく上手く、いつも集団の輪の中心に居るような人でした。
これは若い頃かららしいのですが、対人商売ばかりで仕事をしていたらしく、そこでの経験が生きているのかも知れないと言っていました。
お陰で小さい頃から一卵性双生児ということで何かと奇異な目(というか、当時は珍獣でも見るかのような扱い)で見られることが多かった子供時代にも、沢山の友人に恵まれることになりました。
・・・肝心の友人関係の築き方についてはついぞ教えてくれませんでしたが;

母親としては、子育て熱心と言うか、過保護だったと言うか、お節介焼きだというか・・・
特に小学校卒業までの間はとにかく子供に付きっ切りだった覚えがあります。
「3歳までは親がしっかり見ていないとダメだ」を自負し、物心付くまでの間はそれまで働いていた保険会社を一時退職してでも子育ての時間を取っていたし、
何とか奥手な我々の社交性を高めようと、友人経由で市内の太鼓教室(湯の川祭りの会)に通わせたり、勉強しないのを人並みに心配していたのか、英会話の塾に通わせて見たりと、何かと手をかけようとした節があります。

太鼓教室は小学校3年~中学校3年まで在籍して、函館各地のお祭りで太鼓を叩いてました。当時の1万人パレードでアナウンスされた時はかなり恥ずかしかったのをうっすらと覚えています^^;
英会話の塾は先生がすごく独特の人で、「何とか低価格で塾を運営できないか」と悪戦苦闘しながら、結果的に月額8,000円で3教科、週に2回の受講料を実現したり(当時は2~3倍程度受講料がかかるのが普通)・・・と、同じ手をかけるにも他人と同じ手段はあまり講じていなかったんじゃないかと思っています。

ただ、料理に関しては「面倒くさいので余り好きじゃない」と常々話していたこともあって、上手いものと下手なものの間に恐ろしいほどの差がありました。

■美味しかったもの
 ビーフシチュー、煮豚などの煮込み料理全般
 (特に煮豚はチャーハンに混ぜても絶品だったため、周囲へのお裾分けにも最適!)
 自家製レモネード、トマトソース
 (喫茶店時代のシェイカーが現存。トマトソースはトマト嫌いな我々が唯一原材料を目撃した状態でも食べられた品)

■やばかったもの
 コロッケ、春巻きなどの揚げ物全般
 (とにかく火を通しすぎる;毎回全体的に黒っぽい・・・)
 パスタ、うどんなどの麺類
 (同上・・・ パスタはソースが美味しくても、肝心の麺がモチのようになるまで茹でるため大不評)

個別にあげればもっとあると思いますが、全体的に火を通しすぎた結果、美味しくなるものと不味くなるものがあっただけなんじゃないかと現在では思ってます。
パスタに関しては自分達が料理を手伝うようになってから、全く別な料理の如く劇的に味がよくなったし・・・
好き嫌いも激しく、鶏肉以外は殆ど肉を食べず(自分で作った煮豚、ビーフシチューも食べない!)、魚は全般的に食べるものの、野菜も個別に食べる食べないが非常にハッキリしていた覚えがあります。
トマトに砂糖をつけて食べるのは、今考えても生理的に厳しいものがあります;何故砂糖だったんだ・・・

そんな母親が時折話してくれた自身の昔話ですが、我が家に現存している写真などから推測すると、結構裏街道を突っ走っていた感じがするんですよねぇ~
ちなみに母親は小樽出身らしいです。

 ・恐らく25歳位の頃、岩船修三氏(油彩画家)の絵のモデルをやったことがある
  (これは完成した油絵が手元に残っています。後できちんと額縁を買わないとなぁ・・・)
 ・10代から自分達が生まれるまでの仕事の経歴が、喫茶店の店員→パブのホステス→喫茶店の店員→スナックの経営者→保険外交員
  (どうも父親とはスナックの経営者時代に知り合ったんじゃないかと踏んでいます)
 ・上記の経歴の関係で、地方巡業していた頃の細川たかしを見かけたり、横山典弘氏(JRA騎手)の父親、横山富雄氏(同)との写真が残っていたりする
  (母親が2,3回それについて話していたので多分合っているはず・・・(汗)
 ・写真が好きではないと語っていた割には何故か結構存在するブロマイド状の写真
  (誰かが好んで撮影したのか? もしかしたら当時の時代背景があるのかもしれない)
 ・若い頃の逸話として、ウィスキー1本+ビール大瓶2本空けたところで急性アル中+喉の血管を切って血を吐き、救急車で搬送されたことがある
  (この話をしながらお酒を飲んでいることから、多分事実だと思う・・・)

この他にも結構あったと思うのですが、現在思い出せる限りだとこんな感じです。
当時の写真にも男友達数人とのスナップショットが数枚残っていますし、函館時代で一番気に入っていた仕事がホテル内のスナックのママという辺りが、通常とは随分異なる印象があります。

・・・そういえば、多分出会った当時だと思われる父親の写真が最近写真整理をした時に見つかったのですが、実に胡散臭い見た目をしていて、E型と二人して苦笑いしました。
あぁ、ついでに思い出した。
D型E型が生まれた後のエピソードとして、こんなのがありました。

 ・急性腎盂炎を起こして救急車で搬送:2回(うち1回は危篤まで行ったらしい)
  →にも拘らず、2回とも1週間以内に回復して退院
という、超人じみた真似をやっていたっけ・・・
子供が待っているとはいえ、無理しすぎだと思うのは気のせいなのだろうか?

それでも、人と随分違う人生を歩んできたからなのか、我々の高校進学時に、高専の電算室を当時見学した際、「これからの時代はコンピュータだ!」と確信したり、その後パソコンを何とか覚えようとしたり、自分達がこっそり描いていたイラスト(しかもアダルト絵!)を眺めて、「当人たちの個性がわかりやすく出ているねぇ」の一言で普通に評価してくれた辺りは、さすがというか、何故目をつけたのかというか、少なくとも当時50過ぎた人の感覚ではないな・・・と感じてたりしました。

まぁ、父親と二人して教えてくれた「人には人の生き方があるから、広い視点で評価すべき」「誠実さは何よりの宝物」という思想は自分達の大きな指標になってくれているので、今でも”尊敬できる人は?”と聞かれた時に即答できる唯一の人達なんだろうな・・・と考えたりしています。

望むべくは、もう少し長生きしてもらって、お酒でも飲みながらそれぞれの人生について色々と聞いてみたかった・・・というぐらいでしょうか。

試作D型

試作D型 について

名前:イナムラ試作D型:通称ダイ
製造年:MCMLXXXIとどこかに書いてある
誕生日:そろばんの日と覚えている
性別:男性をイメージして設計された

主な特徴:一卵性双生児の兄を生業とするサイボーグネズミ。
特技は並列作業と体調不良。
思考回路はスコアが非常に良く、複雑な処理も行えるが反面回路的にはセーフティシステムが脆弱で過負荷状態に陥りやすい。
兄の威厳がそうさせるのか、弟のE型より体格が少しだけ良い。
最近重度の対人不信を抱えていることがわかった。

メインタスクとして、お絵描きと日常行動、人生の見つめなおしを地雷除去作業のようなギリギリさで実行中。