人生フルマニュアル運転を目指しているけれど・・・

現在D型(恐らくE型も)として目指している生き方の指針として、
「自分の手の届く範囲内の物事に関しては、出来るだけ幅広く認識を増やし、どんなときでも一定速度で行動できる、若しくは行動量を任意に制御できる」
というものを常に考えながら日々生活しています。

・・・が、この発想を得てからの生活が既に7年程度(正確には2003年位からポツポツ切り替わっている)
経過しますが、自分自身で考えていても中々達成しているかなぁ・・・?と不安になる事態が結構頻発していて、
二人して「どうやったら上手いことこの理念を維持したまま生活できるものか?」と頭を捻っています。

自分達の場合は、目の前に居るもう片方が同じような考え方なので今までそれほど気にしてきませんでしたが、
この考え方、物事の捉え方が実は極めて稀なケースなのか、どうも周囲の状況や発信されている情報を見ていると、「そうじゃないんだ、少しだけ下がって物事を捉えれば、その疑問は解決するのに・・・」と毎度毎度
もどかしい思いをしています。
1回1回は小さな出来事でも、1日に何十回と発生すれば段々精神が蝕まれてくるので、そこにばかり目を向けるのも毒だと思っているのですが・・・

自分の人生(生涯)において、出来るだけ物事を多面的に捉え、あらゆる局面を想定するということの定義。

 この記事を書いている時点で考えが及んでいるのは、人間の一生を生きる上での原則を
 「生まれた瞬間の時空間で行われていた、最小限・若しくは最も古典的な物事は忘れてはいけない」
 「ある時間での物事で思考をストップさせず、常に他の可能性について考慮する
 
 この2点に求めていることなんじゃないかと感じています。

 これについては、一応人間限定という形を取った場合、何らかの物事を規格化、自動化(現在では機械化も含む)を行った際に、その規格化・自動化の反動と言うか、副作用的な側面として「規格化・自動化を行った張本人もまた規格化・自動化の対象になる」可能性があるのではないかと考えています。
 
 これは、ある系での規格化・自動化が行われたとして、その該当行為が規格化・自動化の対象になるかどうか?という判断基準が原則として一意に決まるわけではなく、例え決められていたとしても、「現在の~」「常識的な範囲内で~」「十分な時間を取らない限り~」といった決して恒久的ではない条件が付与されているだけで、十分な時間(といっても数百年から数年まで幅広い)をかける、若しくは膨大なパターン研究、盲目的な反復行動、規格化の意図を隠す(嘘をつく)などによってその規格化では考えられない事象(所謂”例外”)が発生してしまいます。
 これらの例外が増え続けてしまうと、当初の規格化・自動化の意義をどう限定的に作ったとしても、必ずどこかで対象の履き違えや拡大解釈が発生し、最終的には”全ての物事”が規格化・自動化の対象となってしまう結果を引き起こしてしまいます。
 とりわけ規格化の意図を隠したり、それ以前の段階として物事の前提条件を覚えていないという事態が発生すると、とても早い期間で(かかっても数年、早いと1年以内)規格化の拡大解釈が自己の存在にまで及んでしまうのではないかと考えています。

 
 この規格化・自動化の自己循環を防ぐ意味合いとして、万人にとって一意ではないかもしれないが、自己にとって少なくとも一意に決定されるライン(少なくとも自己の一生涯程度の時間は一意であるライン)を明示するべきだと考えています。
 今思い至っている条件としては、現在少なくとも可能性自体が量の問題で片付けられない”時間軸”を利用することです。
 少なくとも自分が生まれた瞬間までの世界(そして2013年の現在でも)では、時間は不可逆な数値であること、もし不可逆ではなかったとした場合、自己だけではなく世界全てが等しく十分に大きな(その世界そのものが危うくなる程度の)影響を受けるとして(現在の自己の誕生~寿命までの期間に関しては)ギリギリ「そうである」と認識することで、これを一定ラインの基礎とすることが出来るのではないかと思っています。
 ただこれだけだと、人間の記憶は必ずしも全ての時間軸上で一意に残り続けるわけではないため、自己のスタート地点や各トピックの記憶を忘れてしまった場合に上記の拡大解釈の元種となってしまうため、規格化・自動化を行う前段階として、それ以前に自分が元々使用していた事柄は可能な限り記憶し、定期的に思い出す・若しくは使用することにより記憶のリフレッシュを生涯にかけて行うことで保管する必要があると考えています。

 この条件を満たしている上でならば、そこからの物事に対して規格化・自動化を行ったとしても、記憶&記録の欠落による、およそ万人が避けられない程度の低確率または、天変地異などに巻き込まれるなどの、自己の生命のほうが先に致命傷を負う可能性のある事象に対して以外の区域では自己参照による自己の規格化・自動化を抑制できるのではないかと考えています。
 当然のことながら、盲目的に何かを受け入れるわけではないため、それと比べると規格化・自動化による行動速度の向上や現世的利益からは縁遠くなってしまいますが・・・^^;
 自己の存在意義を「何かについて考え、本能と理性のバランスを如何にして保ちながらその足跡を残せるか?」という事柄に絞った場合、あるべき姿なのではないかと感じています。

 -何となく何を言いたかったのか、話がよれた様な感じになりましたが、割と簡単に言ってしまうと

 「何事も社会の勢いに乗って運否天賦で結果を拾おうとするのではなく、1歩1歩は遅いけれど、自己の存在をしっかり見直しながらゆっくりと手を広げていくほうがいいんじゃないか?」

 ということなんだと思っています。
 
 ただ、完全にそれだけでは息が詰まってしまう・・・と感じてしまうのが現在のD型の悲しいところ;
 日々を見つめなおした結果、乱数要素の全く無い世界を生きることになってしまうのは出来れば避けたい、 出来ることなら「人事を尽くして天命を待つ」ような世界のほうが生きがいを感じるというのが正直なところです。
 それでも「人事を尽くして~」のくだりが重要であることに変わりは無く、全力で物事を把握・行動した結果、それでもその行動に対して僅かな変化がある(この変化は元々の行動を完全にひっくり返すようなものではない)状態が一番なのかなぁと考える次第です。

 ・・・今回はこんなところだろうか?

試作D型

試作D型 について

名前:イナムラ試作D型:通称ダイ
製造年:MCMLXXXIとどこかに書いてある
誕生日:そろばんの日と覚えている
性別:男性をイメージして設計された

主な特徴:一卵性双生児の兄を生業とするサイボーグネズミ。
特技は並列作業と体調不良。
思考回路はスコアが非常に良く、複雑な処理も行えるが反面回路的にはセーフティシステムが脆弱で過負荷状態に陥りやすい。
兄の威厳がそうさせるのか、弟のE型より体格が少しだけ良い。
最近重度の対人不信を抱えていることがわかった。

メインタスクとして、お絵描きと日常行動、人生の見つめなおしを地雷除去作業のようなギリギリさで実行中。