それがたとえ僅かでも、具体的な”頑張るための指標”を知りたい

毎日毎日、それこそ物理的に体がズッシリと重たくなったり、体のあちこちが痛くなったり、目がかすんだり軽い眩暈を起こす程度まで肉体を酷使しつつ、精神的にも二日にいっぺんぐらいは「これだけやっても何の反応もないか・・・」という絶望感に苛まれながら生活しているのだが、それでも「こんなもんではまだまだ不足だ。社会にはもっともっと頑張っている人たちが居るんだから、休んでいてはダメだ」という感覚に囚われることが非常に多い。

自分自身、おそらくここ10年ぐらいで特に強く感じているものだと考えているのだが(社会人として仕事を始めた時期とも一致するので詳細な切り分けはちょっと難しい)、自分の周囲(家族、親交の深い知人友人を除く)では、下記のような単語が頻繁に飛び交っていると感じている。

「何が何でも一生懸命に」
「寝食を忘れて」
「全身全霊で」

自分はこれらの単語に関して「なるほど、確かにヒトカドの物を残していくためには必要な概念だ」と素直に感じるのだが、それとは裏腹に、それらの単語を実際に聞くときには大きな違和感を感じてしまってならない。

大きな理由としては、恐らくその単語を口にしている人達が、ほぼ一様に「その単語が意味する行動を何一つ実践していない」事があるのではないかと考えている。

一番良く聞く話が、その実践例として「何日徹夜した」とか「仕事で今日も終電だよ」などという一種の苦労自慢なのだが、自分から言わせれば「徹夜するぐらいならその手前の時間からしっかり時間配分しなかったツケを無理やり支払っているだけだろう」という程度のものでしかない。
さらに、本当にそれらの概念を真摯に考えて行動し続けている人達は、決してそんな話をしている肉体的余裕も精神的余裕もあるわけがなく、ただ黙々と目標に対して向き合い続けているのではないかと考えている。

自分自身もこういった記事を書き連ねている時点で、本当に真摯にある目標に対して向き合い続けている訳では無いのだが、逆に「全ての行動を特定の目標に対して捧げ続ける」という概念は、それほど長くは続けられないものだと強く感じている。

例えば「寝食を忘れて」といっても、実際に自分が一番集中している時でも、連続24時間もその状態が続くことは無く、その時間が終わって一息入れたら何かエネルギーを摂取したくなるし、その状況が繰り返し1週間も2週間も続いたら物理的に体を壊してしまうと感じている。

「全身全霊をかけて」といっても、自分の目標以外の「生きるために必要な、もしくは社会生物として行うべき行動」に関して、何かの代替手段を用意するか、誰かに肩代わりしてもらうことを前提として初めて成立する概念であり、これも何日も続くことは実際問題難しいと感じる。

確かに、そんな問題の数々を人や時の巡り合せによって克服している人が偉大な足跡を残しているものを、文献や時にはリアルタイムで見ることがあるのだが、その割合は社会の全体人口から見ると途轍もなく小さい規模でしかない。
体感でしかないが、大体1~10万人に一人、1年に2名以上見かけることができれば多いほうだと思っている。
さらに、その足跡を穴の開くほどその人の背景世界まで考慮してみても「確かにこの結果を導き出すために、その人は時間空間的にあらゆる犠牲を払いつつ、それでもなお巡り合わせや運の力によって社会内部に存在できている、実に偉大な人だと感じるが、自分がそれを出来るかといったら、背景世界からして違うため、参考にならないという感覚までしか至らず、「じゃあ、~の様に頑張ろう!」という話には決して至らない。

そんな話を日常的な生活空間の会話で頻繁に交換しながら「頑張るぞ!」「お前も頑張れよ!」と言い合っているのは、「単なる意気込み」にしかならないのではないか?と感じてしまってならない。
ただし、それが余りにも頻繁に使用されているため、自分自身の行動を振り返ってみたときに「明確な肉体的・精神的にダメージが蓄積している」サインが出ているにも拘らず、「そんな感覚を持っていること自体が怠ける精神の象徴だ」という感覚へのすり替えが発生しているのが、現在最も自分自身を活動に対して重たくのしかかっている部分の一つではないだろうか。

-自分は毎日「明日も生き続けるための余力を残しつつ、残りの体力・精神力を限界まで注ぎ込んで生きている」が、
それでも具体的な結果を出すために、休まず何かをし続けなければいけないのだろうか?

-逆に具体的な結果が出たからといって、その結果だけに捕らわれ本来続けるべき活動を止め、長期的にはその結果自体が風化するまで休み続けてしまってもいいのだろうか?

-人は何を持って「休んでいる」としているのか、逆に何を持って「頑張っている」としているのか、そして人間が人間として生きていくためのそれらの配分はどのようにあるべきなのか?

現在は「もっと世界の成り立ちを考え続ければ、少しずつでもその指標の欠片が手に入るのではないか?」と信じて日々自分の知っていること、知らないことへの更なるアプローチを試み続けているが、具体的な手がかりは殆ど見つからず、体力や気力はすり減り、悩みは増え続ける一方である。

試作D型

試作D型 について

名前:イナムラ試作D型:通称ダイ
製造年:MCMLXXXIとどこかに書いてある
誕生日:そろばんの日と覚えている
性別:男性をイメージして設計された

主な特徴:一卵性双生児の兄を生業とするサイボーグネズミ。
特技は並列作業と体調不良。
思考回路はスコアが非常に良く、複雑な処理も行えるが反面回路的にはセーフティシステムが脆弱で過負荷状態に陥りやすい。
兄の威厳がそうさせるのか、弟のE型より体格が少しだけ良い。
最近重度の対人不信を抱えていることがわかった。

メインタスクとして、お絵描きと日常行動、人生の見つめなおしを地雷除去作業のようなギリギリさで実行中。