自分の”生きる”理由

 ー平たく言ってしまえば、「何か後世に少しでも良いから何かを残して死にたい」という言葉に尽きるのではないかと思っている。

 それは次世代の人物育成(子育てでも、教育という立場でも構わない)だったり、今行っているような創作活動の結果だったりするが、とにかく、「自分がこの世から消えた瞬間に、”自分自身の存在そのもの”が無かったことにされる」というのが最も寂しい事態であると考えている。

 そういった意味では、社会で一般的に言われている人生のテンプレート
  「20歳過ぎたら働いて、結婚して子供を作って、家を建てて・・・」
 というのには一定の意義があるのかもしれない。
 (住宅はうまく行けは数十年形となって残る。次世代も同じ程度は生きてくれるはず。少なくともその間は自分の存在が忘れ去られるという事態は回避できる。)
 
  
 ただし、自分の考え方や生き方から鑑みると、その選択肢を取る以前に他人と全うなコミュニケーションをとるのが非常に高いハードルになりつつあるため、「社会の様相によらず、自力で何か形あるものを残していく」という行動が重要になってくるのではないだろうか。

 それが自分の現在の活動の柱であるBlogだったり、4コマ漫画だったり、別サイトでのお絵かきだったりする。
あくまでネットワーク上の片隅にしか存在できていないため、うまくいっても10年程度、下手すれば1,2年もすれば忘れ去られてしまうものではあるのだが、何もしなければ、文字通り「何も残らないため、自分が消えた瞬間に自身の存在していた事実ごと消えてしまう」状態になってしまうのではないか。

 ・・・人との繋がりも、そういった意味での忘れ去られないための基礎工事のような意味合いが含まれているので、おろそかには出来ないと思っているので、当面は今の生活パターンを続けつつ、何とか人とのコミュニケーションの足がかりを伸ばして行く方向に人生の目標を掲げるべきだろうか。

 願わくば、自分の行ってきた行動が、自身の死後も5年、10年と影響を残し続けてくれれば良いなと考える次第である。

歪んだ”努力”至上主義がもたらす不条理

自分が現在の精神疾患を患う前後から非常に気になっている概念がある。

所謂「苦労自慢」や「根性論」に代表される、「物理的にどれだけ苦労したかによってその対象行動の価値を決める」というものである。

もう10年近くも前からということになってしまうのだが、残念ながら現在進行形で状況は悪化の一途をたどっている。

確かに自分自身でも、物事の成就、成功の影には人知れず行われている”努力”や、苦境に陥ったときにでもその場に踏みとどまって結果が出るのをじっと待つ”根性”といった概念は必ず潜んでいると思っている。

しかし、現在のソレは、非常に捉えられ方の概念が歪んでしまっている。
具体的には、「見た目に分かりやすく、かつ物理的に苦痛を伴うような苦労をすればするほど良い行動である」という概念である。

物事の達成方法にはそれこそ多種多様なアプローチ方法があり、一見苦労していないように見えていても、
「不都合が表面化しないように自己やリソースを適切にコントロールしながら、成果をキッチリ残す」
というやり方もあるだろうし、逆に、
「リソース管理を怠っていた結果として、不眠不休で作業を行わざるを得ない状況に陥った挙句、何とか形だけでも成果が残る」
というケースもあると思う。

自分自身としては、この両者を比較した場合、前者の行動概念に立脚した成果を、その過程まで含めて評価するべきだと考えているのだが、どうも現在の社会では何故か後者の行動をやたらと評価する傾向が強いと感じている。

後者を前者より評価する形になってしまうと、極端な話、「下手にリソース管理能力があり、物事を適切に判断しながら随時消化していく」という場合よりも「リソース管理能力が無いがために、毎度毎度見た目に分かる苦労を伴わないと何も出来ない」という場合のほうが評価対象にされてしまうという極めて不条理な状況になってしまう。

本来ならば、個人の能力のある・なしによらず、その当人が抱えているリスク、使えるリソースに応じて行った行動の結果を、その過程まで含めて「ある物事について結果を出す」という見地から平等に(ここでの平等は内容の平等を指しているのではなく、機会の平等である)判断していかなければならないのではないか。

現行の社会では、どうも”努力”のありようを”定式化(他人から見た目に分かる苦労をしていること=努力)”してしまっているが故にに、その人個人個人が別途有している”努力の方法・方式”を無視した形で何事も評価しようとしているのが、現在の不条理さを作り出している一因ではないのだろうか。

たとえ目に見えづらい形であっても、真に努力している人は日々努力を積み重ねて行動し続けているものだと感じているし、その逆で苦労自慢ばかりする人達が、その実殆ど何も結果的に行動できていないという事実を数多く見てきているので、自分自身もその概念と格闘しながらも、少しでもこの歪んだ努力の価値概念を治して行きたいと考えている。

・・・世の中には、黙々と日々の作業をこなしているように見えても、その内面で激しい葛藤と戦っている人が居て、それは決して否定されるものではなく、むしろ自身の苦労自慢(大抵が徹夜自慢だったりする)だけを振りかざしながらダラダラと仕事をする人達のほうに問題があるのではないかと思うのです。

「夢を見すぎる」

タイトルは寝ているときのお話です。
日ごろから夢見がち、と言うわけではないですよ~

E型です。
少しだけ暖かいかな~?と思っていたら、一気に冷え込むようになりました;
先週は灯油を買いそびれてしまい、えらい目に遭いました・・・
近隣をノンストップで通過するとは思ってなかったので:
(どうも灯油販売車からではなく、車のある家では買出しに行ったり、オール電化の家が増えているからではないかなと思っています)

さて、現状のお話から。
D/E型とも、現在睡眠導入薬を服薬しないと寝付けない状態になっています。
(但し、日中などで疲労がピークに達している時は除く)

なるべく日中に眠気が出ないようにと、活動パターンを考えてはいるのですが、
どうしても疲れが出るときには出る、そんな状態です。

D型のほうは服薬しているお薬の関係か、「疲れているけど寝れない」状態になるようです。
E型は朝のお薬を「飲む」とほぼ確実に日中耐え難い眠気が来ます;
(かといって服薬しないと夕方近くに強い不安感が出ます・・・)

また、睡眠時に夢を見ることが多くなったと感じています。
少なくとも、起きた後に夢の内容を「話し合う」ことができるレベルで記憶している状態が増えました。

夢は「記憶の整理」とも言われています。
夢の中で記憶をつなぎ合わせたり、取捨選択したりなどを行い、記憶の定着/破棄を行うと考えられています。

実際、多くのことを考えていた時に寝たときなどは、非常に高確率で夢を見ます。

また、眠りについている際の外的/内的刺激に影響を受けるともされています。
尿意が近かったり、音楽がかかっていたりすると、それに関連する夢を見ることがけっこうあります。
(特にE型)

・・・とはいっても、「なぜ夢を見るのか」と言う根本的な所は解明されておらず、特に夢の内容が芳しくない場合、当人の精神状態は厳しいのですが、他の人に話してもまったく通じないと言う、ちょっと辛い状態にあります。
夢の内容が記憶に残ることが少ないのですが、それでも覚えていたりすると、後々まで辛い思いをすることになったりします。
(数年前の悪い夢の記憶が残っており、現実に似た状態になると思い出す、など)

我々が経験している状態としては、
「夢の良し悪しにかかわらず、記憶に残るような夢を見たときには、起きたときに疲労が抜けていないことが多い」
と言うものがあります。
夢の記憶があるときには、たいてい話をするのですが、そういった時は決まって体調が悪い、もしくは精神的な調子が悪い状態になっています。

体は睡眠時に休んでいるものの、脳は「夢を見る」ことで活動しているため、脳の疲労が抜けない状態が続いているのだと推測しています。
もっとも、「夢をまったく見ない」場合も何らかの問題があるので、それはそれで問題なのですが・・・
結果的には「適度に覚えている程度」かつ「夢の時間が短い」方が「睡眠時の疲労は抜ける」と言うところです。

とりあえずの回避策としては
・寝る寸前まで考え事をしない
と言うことぐらいでしょうか・・・
かといってこれが出来るならそこまで精神状態が悪くなることはないわけで(汗

他によい回避策があればいいのですが。

アナログで絵(線画)を描き続ける理由

エイです。
最近ちょっと寝つきが悪くなってきています・・・
お薬にはあまり頼りたくないのですが;

さて、最近D型と話した内容のうち、メモしてあったものをログとして吐き出しておきます。
E型は実は初めてかな・・・?

2013年現在、全てPC上でお絵かきなどの作業を行えるようになっています。
(テキストデータなどはかなり古くから出来ていました)
E型は目が悪いため、ペン先と表示位置が異なるタブレット(普通のもの)だと、精度上の問題で描きづらかったりはするのですが、これは余談。

特に線の情報をベクターデータで残しておけるタイプのツールだと、
・拡大縮小などの変更を加えても、「ベクターデータ」そのものには変更が無いため、(データ上は)劣化しない。
・線そのもののデータを変更できる(連結/分割/移動など)

また、ツールによりますが
・ペン入れ補助機能(大まかな「線」と思しきラインを中心として、新たな線を引くことが出来る)
・レイヤー機能(上下の重なりを考慮して、部分部分に分割して描ける)

などなど、絵を描く上で非常に便利な機能がたくさんあり、
全てを駆使できるようになれば、非常に高速に、かつ綺麗な絵が描けるようになったと思います。

実際、早くなっているなぁと感じることも多くなりました。
いや、我々が遅いだけかもしれませんが・・・;;

それでも、D型E型とも、「アナログで絵を描き続け」ています
(この場合は「きちんとした線画を紙に描く」となるわけですが)
まぁ、色付けは部材が無いので、現時点では妥協点です。
D型は「水彩マーカーが欲しい」と言っていますが・・・1セットあってもいいかな?\5,000ぐらいするけど・・・
ちなみに現在スケッチブックがお気に入りの様子。

これは色々と理由があるわけですが、大雑把に
・最低限のもの(この場合は紙とペン)で絵が描けること
・いつでもどこでも絵が描けること
・いつまでも描いた絵が残っていること
と言う形になるかと思います。

E型は絵を描き始めてからおよそ20年、D型でも15年ぐらいでしょうか?
(さすがにE型当初の絵は残っていないですが)開始当初から、ほぼ全ての絵が家に残っています
一度だけ、外向けに出した絵が破棄された例もありますが・・・(汗)

「紙に描いた」アナログデータは「とりあえずバインダーに挟めておく」だけで、かなりの長時間保存ができるから、と言うのが一番の理由です。
ノートに取ってあれば、「ノートは捨てない」と言う風にするだけでほとんどずーっと保存できますし。

ディジタルデータの場合、データ「そのもの」の寿命はないのですが、
・データを記録する「媒体」に寿命がある(しかも紙などと比べると十分に短い)
・わずかでもデータが破損すると読み取れなくなる(シーケンシャルデータでもない限り、一部欠損などでも再生できなくなる)
・エンコード方式が分からなくなると再生できない(データそのものはビット列の塊であり、それ自体に「意味」が含まれているわけではないため)

など、現時点では色々と問題を抱えていると思うのです。
媒体寿命/データ破損はバックアップを複数取ることで、現段階では解決していると見なせますが、
エンコード方式が分からなくなった(近い将来は無いでしょうが、たとえば.PSDファイルの構造が分からなくなった)場合は、
それこそ古代文字の解読のような作業を行う必要があるわけです。
それが暗号化されているならなおのこと。

結局、どこかの段階でアナログ出力(印刷など)しておく必要があるのかな、と思います。
プログラムなどは出力するのが難しいですが・・・;

それなら、手間はかかっても、最初からアナログで描いたほうが早いのでは?と思う次第。
結果的に「どんな環境でも」描けるというのは最大の強みですし。

まぁ、さらにいえば「思考」も「ディジタルデータ」(物理量がなく、電気的刺激により構成されているため)になると思います。
だからこそ日記をつけたり、こうしてブログなどに「一時的にでも」吐き出す必要があると思っているのですが・・・

なにせ「忘れる」と、ほとんど失われてしまう上、当人が存在しなくなった時点で「全て消えてしまう」訳ですから。

生きた証を無くされるのは御免被りたいところです。

・・・そんなわけで今日も今日とてお絵かきしています。

それがたとえ僅かでも、具体的な”頑張るための指標”を知りたい

毎日毎日、それこそ物理的に体がズッシリと重たくなったり、体のあちこちが痛くなったり、目がかすんだり軽い眩暈を起こす程度まで肉体を酷使しつつ、精神的にも二日にいっぺんぐらいは「これだけやっても何の反応もないか・・・」という絶望感に苛まれながら生活しているのだが、それでも「こんなもんではまだまだ不足だ。社会にはもっともっと頑張っている人たちが居るんだから、休んでいてはダメだ」という感覚に囚われることが非常に多い。

自分自身、おそらくここ10年ぐらいで特に強く感じているものだと考えているのだが(社会人として仕事を始めた時期とも一致するので詳細な切り分けはちょっと難しい)、自分の周囲(家族、親交の深い知人友人を除く)では、下記のような単語が頻繁に飛び交っていると感じている。

「何が何でも一生懸命に」
「寝食を忘れて」
「全身全霊で」

自分はこれらの単語に関して「なるほど、確かにヒトカドの物を残していくためには必要な概念だ」と素直に感じるのだが、それとは裏腹に、それらの単語を実際に聞くときには大きな違和感を感じてしまってならない。

大きな理由としては、恐らくその単語を口にしている人達が、ほぼ一様に「その単語が意味する行動を何一つ実践していない」事があるのではないかと考えている。

一番良く聞く話が、その実践例として「何日徹夜した」とか「仕事で今日も終電だよ」などという一種の苦労自慢なのだが、自分から言わせれば「徹夜するぐらいならその手前の時間からしっかり時間配分しなかったツケを無理やり支払っているだけだろう」という程度のものでしかない。
さらに、本当にそれらの概念を真摯に考えて行動し続けている人達は、決してそんな話をしている肉体的余裕も精神的余裕もあるわけがなく、ただ黙々と目標に対して向き合い続けているのではないかと考えている。

自分自身もこういった記事を書き連ねている時点で、本当に真摯にある目標に対して向き合い続けている訳では無いのだが、逆に「全ての行動を特定の目標に対して捧げ続ける」という概念は、それほど長くは続けられないものだと強く感じている。

例えば「寝食を忘れて」といっても、実際に自分が一番集中している時でも、連続24時間もその状態が続くことは無く、その時間が終わって一息入れたら何かエネルギーを摂取したくなるし、その状況が繰り返し1週間も2週間も続いたら物理的に体を壊してしまうと感じている。

「全身全霊をかけて」といっても、自分の目標以外の「生きるために必要な、もしくは社会生物として行うべき行動」に関して、何かの代替手段を用意するか、誰かに肩代わりしてもらうことを前提として初めて成立する概念であり、これも何日も続くことは実際問題難しいと感じる。

確かに、そんな問題の数々を人や時の巡り合せによって克服している人が偉大な足跡を残しているものを、文献や時にはリアルタイムで見ることがあるのだが、その割合は社会の全体人口から見ると途轍もなく小さい規模でしかない。
体感でしかないが、大体1~10万人に一人、1年に2名以上見かけることができれば多いほうだと思っている。
さらに、その足跡を穴の開くほどその人の背景世界まで考慮してみても「確かにこの結果を導き出すために、その人は時間空間的にあらゆる犠牲を払いつつ、それでもなお巡り合わせや運の力によって社会内部に存在できている、実に偉大な人だと感じるが、自分がそれを出来るかといったら、背景世界からして違うため、参考にならないという感覚までしか至らず、「じゃあ、~の様に頑張ろう!」という話には決して至らない。

そんな話を日常的な生活空間の会話で頻繁に交換しながら「頑張るぞ!」「お前も頑張れよ!」と言い合っているのは、「単なる意気込み」にしかならないのではないか?と感じてしまってならない。
ただし、それが余りにも頻繁に使用されているため、自分自身の行動を振り返ってみたときに「明確な肉体的・精神的にダメージが蓄積している」サインが出ているにも拘らず、「そんな感覚を持っていること自体が怠ける精神の象徴だ」という感覚へのすり替えが発生しているのが、現在最も自分自身を活動に対して重たくのしかかっている部分の一つではないだろうか。

-自分は毎日「明日も生き続けるための余力を残しつつ、残りの体力・精神力を限界まで注ぎ込んで生きている」が、
それでも具体的な結果を出すために、休まず何かをし続けなければいけないのだろうか?

-逆に具体的な結果が出たからといって、その結果だけに捕らわれ本来続けるべき活動を止め、長期的にはその結果自体が風化するまで休み続けてしまってもいいのだろうか?

-人は何を持って「休んでいる」としているのか、逆に何を持って「頑張っている」としているのか、そして人間が人間として生きていくためのそれらの配分はどのようにあるべきなのか?

現在は「もっと世界の成り立ちを考え続ければ、少しずつでもその指標の欠片が手に入るのではないか?」と信じて日々自分の知っていること、知らないことへの更なるアプローチを試み続けているが、具体的な手がかりは殆ど見つからず、体力や気力はすり減り、悩みは増え続ける一方である。

人の”処理”できる情報量には明確な上限があるのかもしれない

どうもダイです。
ここ2週間ぐらいずーっと頭を悩ませていた事項を出来るだけまとめてみようと思います。
・・・この考え方自体は10年以上前からあったのですが、とりわけここ2,3年で違和感が急激に強くなってきたのと、2013年に入ってからはあらゆるところで自分自身の思い描いている状況と明確に異なる、体感的には「明後日の方向」に物事が向かっているように感じて仕方が無いというのがこの記事を何とかどこかに残してしまいたいと感じる原動力になっています。

 我々(自分やE型も含むあらゆる人)が普段から意識的・無意識的に入手している”情報”には、文字や音、色や形のほかにも臭いや感触、さらには空間の配置や時間の経過などが、それこそあらゆる物事に対して事細かに、かつ膨大に含まれている
 その莫大な”情報”を、我々はあらゆる時間に対して受け取り続け、自身の能力や自由に活動できる時間を利用してそれを分析・理解し、この情報が自分自身に対してどういう変化を与えるのか、またそれが他者に対して、さらに自身の所属する集団に対して、それが広がって社会全体に対して・・・という形で、最終的に「どういった形でその情報がどこに・どれほどの影響を与えていくのか?」について考えていくものであると考えている。

 この「人間の一生涯(人生)のある時期・状態において、時間をかけて何かを考える」というのは、時代背景やその人の置かれている状況にかかわらず必要な事柄であり、所謂”人間性””社会性””相互理解”といった概念の基本的な構成要素になっているのではないだろうか。
 自分の考えている範囲では、とりわけ産業革命以降の「ある社会の中での役割そのものの分業化」が進んだ世界では、最早人が一人だけで誰とも関係を持たずに日々を過ごすことは実質的に不可能なレベルになってしまい、如何にしてその生物としては脆弱な環境の無数の組み合わせによって発生する現代的な意味での”効率のよい世界で”個人個人がお互いの存在を認識し、関係を明示的に深めていくことの基本的事項であると考える。
 特に社会システムが大きくなるにつれて、”自分では直接見たり触れたり出来ない場所の物事”に対しても考えを巡らせないと、一時は良くとも長い時間で見てみれば自分自身を含むシステム全体を破壊してしまう危険性があるため、少なくとも時系列的に昔と比較して、物事を考えるという行為が軽んじられるべきではないと考えている。

 そこで、”思考速度”や”判断速度”そのものについて考えてみる必要があるのだが、個人的な体感であり根拠に乏しいのではあるのだが、
 時代や文化に対して極端な差は無く、むしろ生物としての人間の構造(脳構造など)によってかなりの部分が一意に決定されるのではないかと考えてしまう。
 努力や経験によって埋められる・追加できる部分は確かに随分あるとも感じるのではあるが、それをもってしても、五感全てに対して、さらに自己と他者の関係性まで含めた総合的な感覚・処理の能力ということになると、どの文化でもその総合計には10倍も100倍も大きな差があるとは思えない。

 ある時代やある文化に対しての成立背景やそこで起こっている事象についての研究は、それこそ文化人類学や考古学・歴史学に詳しいと思うのだが、そこで研究できているのはあくまで”記録に残っているごく一部の情報”に関してのみであり、そこからある程度の思考背景や人々の日常について概算でまとめることが出来るが、実際に”その人個人(もしくは集団)””1日24時間(当然文化によって感覚は異なるが)””1年365日(同左)”つまり日常の事細かな全ての状況における人間の情報の入出力・思考や価値判断については、まだ研究されていないか、全体を研究するのにはとてつもなく膨大な時間を必要とするため実質不可能である可能性もある。
(この辺は専門の研究状況などを全て把握できているわけではないので、間違っていたら申し訳ない・・・)

 結果的に自分自身が今考えていることは、各文化や時代における人々の考え方や行動の仕方の変遷は、”一方的な能力の向上”というスカラー量的な話ではなく、人間としての各種能力や生存環境によりある程度決定される”処理速度の根本限界”を”どうやって社会生物として上手く帳尻を合わせていくか”というベクトル量的な概念におけるバランスの取り方の模索の結果として生み出されてきたものではないかということである。
 基本的には、”どこかに集中して感覚と考える能力を割り振る”と、”それ以外の感覚で物事を捉えるのが雑になったり難しくなったりする”というものであり、そのうちで”考える時間”自体は全体の”処理速度の根本限界”を支える大きな柱だと考えている。

 ここで、自分自身のこれまで生きてきた年数(高々30年少々ではあるが・・・)、自分自身と、実際にほとんど同じ時空間を共有して生きてきた、一卵性双生児の弟(試作E型)と、色々な物事に対する認識をつき合わせてみると、

「表層的に物事を入出力する機会は1年ごとに増え続けている」
「とりわけネットワークインフラの発達する前後で爆発的に機会も実際の頻度も増えた」
「ただし、物事を根本的に考える”時間そのもの”は、入出力の機会に反比例するように短くなっていて、認識内容もきちんとしたスートではなく穴抜けが多くなっている」
「特にこの10年程度で考えてみると、”一部の認識を意図的に欠落させる”事で”見た目の反応・処理速度”を向上させている印象が強い」
「その関係で表立って存在している情報(主に文字・音声など)をつなぎ合わせると、とても連続した時間軸で行われているとは考えられない量の多少・時間空間における不連続さがあちこちに見えてしまう」

といった違和感をお互いに感じる状態になっている。

 自分たちは出来る限り”小さいころから引き継いでいる肉体・精神活動を出来る限り維持しながら生活する”ことを目指しているが、それでも現代生活においては1日24時間という絶対的な制約と肉体と精神のバランス(肉体を維持・強化している最中はあまり精神活動が行えないなど)から、小さいころと比べてより知識を身につけ、出来るところは訓練をし、知恵を身につけ、何か情報を発信できないかと考えて少しでも実行できるようになったのだが、反面運動能力は肉体の成長速度より遅い発達・もしくは成人周辺から緩やかに下降しており、日々肉体の不調(主に激しい疲労感)と精神の不調(猛烈な不安に駆られたり・人と話をするのがとてつもない重圧となる)と格闘することになってしまっている。

そしてとりわけ社会人になった後から痛感する事柄であるのだが、日本文化圏においては、少なくとも1945年以降(現在の日本国成立以降)、”社会(とりわけ企業体)に対する労働”に割く時間が他の文化圏と比べても特筆して多く、その分”自分の所属している集団「以外」”について何かを考える機会というのはかなり少なかったのではないだろうか。

 特に顕著な部分だと感じているのが、ここ2-30年の”モノあふれ”の状況である。
現在日本で受けること・入手することの出来るモノ・サービスなどは非常に多くなっていて、実際誰でも時間・場所を選ばずにあらゆる選択肢を選べるようになってきているのだが、人間そのものの持つ”1日24時間、1年365日を寿命まで”という時間感覚はこの2-30年では高々1.2倍にも届かない程度でしか伸びてはいない。
それに対してモノの数は同じ年月で体感で10倍以上、サービスはそれこそ小さなものまで数えたらキリがないほどの係数で膨れ上がっていると考えられる。
そしてモノおよびサービスを利用することによって消費される”時間”については、同じ時間の推移では、変化の少ないものではほぼ当倍、差が激しいところでも1/20程度、平均してみると細かい計算は省略するが1/4~1/5程度に短くなっている程度だと見積もることが出来ると考えている。

 すると、モノは当時より10倍~それ以上に膨れ上がっているのに、それを消費できる時間が超寿命の恩恵を考慮してもせいぜい1/6~1/7程度にしか縮まっていないため、「モノはあってもその全てが誰かの手に渡るわけではなく、そもそも誰も買えない事態も発生し、たとえ買ったとしてもそこまででストップしてしまい、適切な使い道で消費することが出来ない」という状況に陥ってしまっているのではないか。

当然モノやサービスを提供する側は、それを作り出すことを生業としている以上、商品の循環率が100%を大きく下回ってしまうというのは致命的な問題であり、短期的には物価に対する給与の減少という形で問題を先送りにして、ある程度根本的なアプローチとして、無理やり循環率を引き上げようとするか、さもなければ不当な競争が発生することによって、モノを作り出す側も使う側も、その生産・消費意図とは関係のない、特に時間にまつわる部分の帳尻を無理やり合わせこむ形で半ば強制的に利用させられてしまうという事態が発生しているのではないだろうか。

・・・うーむ、話が飛びすぎているような気もするなぁ;

自分自身が今考えていることとしては、タイトルから翻って「何かを明確に考えながら使用しているように見えて、その実ただの”長々とした何か”を盲目的に反復しているだけではないか?」という事柄や、別な話との組み合わせになってしまうけれど「もっと横断的に物事を考えていかないと、最終的には縦方向の構造以外の部分では”騙しあい”による不審の連鎖から来る差別や偏見、または潰し合いになってしまわないか?」というものなのですが・・・
それを説明するには文章能力も体力も足りないという体たらく。

こんな文章でも多少何かを感じ取ってくれれば幸いなのですが、これは自分自身は訓練していくしかないなぁと考える次第です。

イチから物を創り出す楽しさ、難しさ、そこから思う違和感

6月末~7月上旬と比べるとやや涼しくなっている感じがありますが、それでも体力を削る分には十分な暑さを発揮してくれている中での今回のDumplog。
結構な頻度で耳鳴りに見舞われるD型です。眼とか神経とか色々使いすぎているんだろうか;

(このBlogも含めて)日々の生活の中で何か物を創り出すという行為について、自分自身できるだけ”手出しの部分”多くしながらどこまでその結果を残していけるか?という事柄を常に考えているのですが、それを実際に行うには、数多くの手順や前提条件を考慮したり突破したりしておく必要があるのだなぁ・・・と感じています。
 あまり大きなことは言える立場とは思えないのですが、どうも周囲を見ていると、『何かしている様に見えて、その実全部他人からの借り物をそのまま利用しているだけ』という人が少なくない(かつ、自分の記憶の限りでは徐々に増えてきている)と感じて仕方が無いのです。

 自分自身の日常生活や、これまでの人生で記憶に残っている出来事やその時感じていた感情や認識を一つ一つ手繰り寄せてみると、概ね何かを創り出そうとした時に持っておかねばならない概念というのが一貫して出ているのかなぁ?とうっすら感じたりします。
 今考えている要素としてはこんな感じです。

  1.その物事を創り出したいという”情熱”
  2.基礎となる知識や手段をある程度学ぶ”時間”や練習する”機会”
  3.(とりわけ見栄えだけ良い)手段や、目標そのものを安易にすり替えないための”意志の強さ”
  4.単純なものだけではなく、複雑な物事にも対応するための”要素分解に対する知識と経験”
  5.自分自身が何を行い、その中で何を手に入れ、何を失ったかを把握する”客観性”

 多分ほかにも重要な要素はあると思うのですが、今思いつく限りで書き連ねています。
 少なくとも上記の要素を、一つ一つその人個人の能力に応じた過程を経て学び、実践しながらそれが正しく習得できたのか?正しく行使できているか?自分の目的がすり替わっていないか?etc…を相当長い期間過ごす必要があると思っています。
 自分の体感ではおおよそ10年ぐらいはかかるのではないだろうか?と思いますが、機会や時間に恵まれなければさらに時間がかかるかそもそもあきらめざるを得ない状況になってしまいますし、その機会を与えてくれる人の存在(いわゆる”師匠”)があればこれらの手順はかなり簡略化できますが、実際には協力者も殆どおらず、例え一人でも黙々と自分の意志のみで続けていく形になるほうが多いのではないかと思います。

 当然その過程で、別な経路(とりわけ現世的利益を追い求める形になることが多い)をとろうとする場合、その時は「十分な成果が出たらまた元の道に戻れる」と考えていても、実際に元の道に戻れるかは元々持っていた情熱の力以外では”時の運次第”程度の絶望的に低い確率論でしか戻ってこられない状態になってしまいます。
 現世的利益が絡んでくる場合は、そもそも元の道に戻る意義自体を見失うことが圧倒的に多いため、より自分自身に強く言い聞かせてその道を逆に塞ぐ位の気迫が無いと「気がついたら自分は何をしているんだろう・・・」という事態にもなりかねません。

 実際に具体的な創作活動を始めて12年、人生を通してそういった活動を行っている記憶を辿っても高々25年あるかないかという短い経験ではあるのですが、上記の条件を例え地味でも決して欠かさず、「自分はどこまでやれるのだろうか?」と自問自答しながら活動を行っている人を見る機会は殆ど無く、それとは対照的に社会背景の変化や自身のその時の限界などにより、一時的にでも方向転換を余儀なくされ、そしてそのまま基の活動に戻ることが出来なくなってしまった人達をそれこそ数え切れないほど見てきました。
 全くのゼロから全ての物事を創り上げるというのはあまりにも遠い話ではあるのですが、かといって”常に目の前の物事から食いっぱぐれないようにする”スタンスでは、あっという間に自分が何をしているかわからなくなり、下手をすると「結局何したっていいんじゃないか?」という、本来あった自分の行動理念を全て捨て去ることにもなってしまいます。
 
 最終的にはどちらとも言えない形にはなると思うのですが、”自分が即時破滅しない程度に日々を見据え、それ以外は出来る限り自分が当初思い描いていた目標に向かって、その都度自分の状態(バランス)を見極めながら出来る限り活動を続ける”という方向で生きていくことになるのだろうか?と考えています。

 ・・・余談ですが、二元論は物事の比較に用いやすいのでつい使用しがちですが、実際にはこの世界は本当に沢山の要素が複雑に絡み合っている状態で成り立っていて、二元論では「どちらがより真実から遠いのか」しか決めることはできないことに注意しなければならないと思うのです。

今までやってきた事と、やり残した事の狭間で

いつものD型のDumpLogです。

2013年も半ばを過ぎようかという時節になってきておりますが、一向に体調不良が改善いたしません・・・

例年だと2ヶ月~3ヶ月ごとに好調な時と不調な時が交互に出現するパターンが多いのですが、今年は1月頭っから6月下旬の今頃まで殆ど不調な時期で占められてしまっています><
幸いまだ肉体的ダメージ(打撲や捻挫、骨折など)を負っていないため、そこらへんの自傷的な行動を慎んでいるしわ寄せなのだろうか?などと身も蓋も無い考えがぐるぐる回っている今日この頃です。

・・・本当に珍しいことなのですが、6月の中旬に入る辺りから、「もうどうでもいいんじゃないか」とか「いっそ何も考えず、楽しいことだけ追いかけようか・・・」などと考えてしまっている状態がチラホラ発生してきてしまっています。

こんな状態は約8年前(もうそれだけ経過するのか!)に鬱病を発症した当時と、3年前に現在の仙人のような生活を営むようになる付近に僅かに存在した程度で、日ごろはまず真っ先に生き方の選択肢から除外していたはずだったのですが;


D型自身としては、上記の二つの吹き出しの概念については”過去と未来を放棄する発想”として、長らく思考の格闘相手になっています。(ほかの人はどうなんだろうか?)
これは、自分自身が好きな物事を整理していったときに見つけ出した共通点だったのですが、”制約条件を多く課されている状態”で、”その範囲内をギリギリまで見切りながら作り上げた物事”に合致するモノに興味を惹かれることがかなりの割合を占めていました。
単純に自分の置かれていた境遇がそれに近かっただけ、もしくは時代のブームがそうだっただけだという問題なのかもしれませんが、音楽はCD-DA音源になるまでのゲームミュージック(とりわけFC後期やPC-88、PC-98が多い)や1ドットずつ打ち込んだり、そもそも色が16~256色で描かれていたグラフィック(こちらはSFC中後期がメイン)が殊更好きなのです。
しかも出来ればアレンジやリマスタリングされたモノではなく、当時の実機で稼動していた原曲や実グラフィックのほうがより重要だと思っています。

もし後の世の中にそれより良いとされる代替物、若しくは自身の再編物があったとしても、”たとえ不完全であってもその当時の技術力や創造性・その他もろもろもの制約下で発表を決意した結果”だとして、オリジナルの物はそれらとは別途評価すべきだと思うのは、ともすれば単純な懐古主義者と混同される状態ではあるのですが、自分からすれば、逆に当時の物事の再編を安易に繰り返すような状態は、”新しいものを作り出そうとする気概が薄いのでは?、または当時の物事を中途半端な気持ちで作り出したのか?”と感じて仕方がないのです。

これは自分自身の活動基準としても機能しており、例え今から思えばひどく不恰好だったり、もっとマシな選択があったのではないか?こうすればよかったかなぁ?と思い悩んだりしたとしても、”その当時の自分””考えあぐねて出した結論や結果”であるならば、それは無闇に無かったことにしたり否定したりしてはいけない、きちんとした物事であったと受け止めるようにしています。
勿論創作活動でもこの考え方が基本となっているので、いたずらに過去の作品を持ち出したり、忘れ去ったりするのではなく、それらはその都度「描きたい!」と思った内容を時間や肉体、精神を削りながら作り上げた一連の作品だとして、さらに新しいものを創造するように毎回悪戦苦闘しています。
古い作品の中にも、「今より出来のよいやつがあるじゃないか!」と今の腕前にガッカリしたりするときもありますが、その当時とは一つの作品を作る時間が3倍ぐらいまで引き上げられている上、表現能力も増えていて、何より大失敗が発生しなくなっているという事実をきちんと受け入れるべきなんだなぁとふっと考え直したりしています。

平たく言ってしまうと、「今までやってきたことはやってきたこととして切り分けるが、それでもやり残した事柄が沢山あるので、やり残したことがなくなるまで出来る限り考え行動し続ける」ということなんじゃないかと思っています。


※上手く文章が組み込めなかった部分について別記しておきます。

 制約事項の多い状態での物事の試行錯誤が好きなのですが、似たような事例で逆に余り好まない部分もあって、”見た目は制約事項を満たしているが、詳細に調べると、その世界の基本基準未満のバラバラな要素をモザイク状に組み立てて、結果的にそれっぽく見えてしまっている”物事に関しては一貫して否定的な感情を抱いています。
 恐らく”その手法をとってしまうんなら、世界のあらゆる物事をそのバラバラな要素の機械的な組み合わせ+偶発的な成果待ちになってしまう”という危惧があるからなんじゃないかと考えています。
 あらゆる組み合わせに関して可能性を捨てるわけではないが、その世界が成り立っている基本原理まで無視するようなやり方は、その世界での活動に根本的限界を向かえた時のあくまで最終手段だと思うのです。D型としては、どんなものでも、そこにあるからにはそれなりの理由があるはずというのが基本的な物事の捉え方です。

人は、そして自分は一体何と格闘しながら生きているのだろうか?

天気の良い日が続いていると思ったら、昨日から突如として大荒れの状態が続いております。
気温自体の上下も激しいため、毛布が必要かなぁ?と思って寝たら、朝蒸し暑くて目が覚めるといったパターンにはまってしまっています;
今年のお天道様は随分とご機嫌斜めな様子・・・

そんな中でも合間を縫って庭仕事に精を出してみたり、ややペースは落ちているもののお絵描き+4コマ製作をしていたり、日々の思考や夢見をメモに残したりと色々手を出してみたり、今までの活動を補強していたりしています。
E型の誘いを受けて、ちょっとだけSims3をやってみたりもしてます。

そんな日々の中、上記のような行動を1日の中で各種とっているにもかかわらず、
「自分自身、殆ど四六時中と言って良いほどあらゆる物事に対して考えを巡らしていたり、その上で様々な活動を行っているのだが、いまひとつ”何もしていない、出来ていない”という感覚に苛まれる」という精神的なギャップとも言える状態に陥ってしまっています。

これの原因について色々と思いをめぐらせて見ているのですが、どうも「自分(D型もしくはE型)」に対して「他人(それ以外の人達)」の行動を照らし合わせると、まるで他人が24時間片時も休むことなく、日常生活を送りながら、社会的・対外的に認められたアウトプットを出しつつ、周囲とコミュニケーションをぬかりなく行っているように感じてしまうのです。

自分達の行動を分析してみると、殆どの日は主要な行動(家事仕事、PCでの一般作業、お絵描き、その他趣味全般)を全て行っていて、かつその合間に日ごろから疑問に思っている事柄についてE型と何時間も話し合い、せめて少しでも解決の糸口が無いものか模索していることが一応認識することが出来ます。
(対外的なコミュニケーション活動については、幼少期からの難点(課題?)として、他人のそれより有意に少ないと認識している)

実際に1日の中で、「暇をもてあましたり、ボーっとしている時間」というものはほぼゼロと言ってよいほど活動しているはずなのですが・・・

どうも自分達から見える「他人」の活動というものは、入手する情報が全体的に抱えている匿名性に起因する”1人の純然たる個人による結果かもしれないし、殆ど似たような特性を持つ数千人の集団の合計かもしれない”というきわめて曖昧な解釈の下でしかうかがい知ることが出来ていないのかな?と感じています。
出来る限り個人一人一人の活動そのものの量、方向性、質について考慮してみると、自分達の活動はあくまで「二人(D型、E型)の連携はあるが、基本的に一個人は一個人である」という分量であるとは考えていますが、他人についてはそれこそその人の1日を丸々追える訳ではないので断定は出来ないのですが、どうやら実際に一人の人間が先に書いた活動内容を全て個人で行っているのかというと大いに疑問が湧く状態です。

メタファーという単語は余り好きではないので多用したくないのですが、他人の行動内容を見ていると、殆どの部分に概念としてのメタファーが入れ子状態でがビッシリ詰め込まれている(張り付いているの表現がしっくり来るのかなぁ?)ため、”独立した1個人”として考え行っている活動というのは極めて少なく、逆に同じメタファーを共有している大集団からは、例えその人自身がその集団にただ所属しているというだけでも、その集団が行っている行動の結果全てを、あたかも1個人が行った結果であるかのように見せることが非常に多いような気がしてなりません。

これは極端な話になってしまうかも知れませんが、自分自身が”何もやっていないのではないか?”と感じているその瞬間にも、決してボーっとしているわけではなく色々な物事を実行したり考えたりしているのですが、それが”社会が欲している行動・思考ではない”という一点だけで全て棄却されているという現実問題からダメージを受けてしまっているのではないかと思えて仕方がありません><

何かに所属して概念をメタファーとして共有する、という行動は社会を形成し、効率的な活動を行う上で必要不可欠なものだと思っていますが、それを行いすぎる余り、自身の存在を社会に融合させながら「社会の長い手足」として生きていくのは、”個体”のある生物としてはいかがなものか?と感じてしまうのです。

※単語の使い方に誤りがあったらゴメンナサイ;

人生フルマニュアル運転を目指しているけれど・・・

現在D型(恐らくE型も)として目指している生き方の指針として、
「自分の手の届く範囲内の物事に関しては、出来るだけ幅広く認識を増やし、どんなときでも一定速度で行動できる、若しくは行動量を任意に制御できる」
というものを常に考えながら日々生活しています。

・・・が、この発想を得てからの生活が既に7年程度(正確には2003年位からポツポツ切り替わっている)
経過しますが、自分自身で考えていても中々達成しているかなぁ・・・?と不安になる事態が結構頻発していて、
二人して「どうやったら上手いことこの理念を維持したまま生活できるものか?」と頭を捻っています。

自分達の場合は、目の前に居るもう片方が同じような考え方なので今までそれほど気にしてきませんでしたが、
この考え方、物事の捉え方が実は極めて稀なケースなのか、どうも周囲の状況や発信されている情報を見ていると、「そうじゃないんだ、少しだけ下がって物事を捉えれば、その疑問は解決するのに・・・」と毎度毎度
もどかしい思いをしています。
1回1回は小さな出来事でも、1日に何十回と発生すれば段々精神が蝕まれてくるので、そこにばかり目を向けるのも毒だと思っているのですが・・・

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