人は、そして自分は一体何と格闘しながら生きているのだろうか?

天気の良い日が続いていると思ったら、昨日から突如として大荒れの状態が続いております。
気温自体の上下も激しいため、毛布が必要かなぁ?と思って寝たら、朝蒸し暑くて目が覚めるといったパターンにはまってしまっています;
今年のお天道様は随分とご機嫌斜めな様子・・・

そんな中でも合間を縫って庭仕事に精を出してみたり、ややペースは落ちているもののお絵描き+4コマ製作をしていたり、日々の思考や夢見をメモに残したりと色々手を出してみたり、今までの活動を補強していたりしています。
E型の誘いを受けて、ちょっとだけSims3をやってみたりもしてます。

そんな日々の中、上記のような行動を1日の中で各種とっているにもかかわらず、
「自分自身、殆ど四六時中と言って良いほどあらゆる物事に対して考えを巡らしていたり、その上で様々な活動を行っているのだが、いまひとつ”何もしていない、出来ていない”という感覚に苛まれる」という精神的なギャップとも言える状態に陥ってしまっています。

これの原因について色々と思いをめぐらせて見ているのですが、どうも「自分(D型もしくはE型)」に対して「他人(それ以外の人達)」の行動を照らし合わせると、まるで他人が24時間片時も休むことなく、日常生活を送りながら、社会的・対外的に認められたアウトプットを出しつつ、周囲とコミュニケーションをぬかりなく行っているように感じてしまうのです。

自分達の行動を分析してみると、殆どの日は主要な行動(家事仕事、PCでの一般作業、お絵描き、その他趣味全般)を全て行っていて、かつその合間に日ごろから疑問に思っている事柄についてE型と何時間も話し合い、せめて少しでも解決の糸口が無いものか模索していることが一応認識することが出来ます。
(対外的なコミュニケーション活動については、幼少期からの難点(課題?)として、他人のそれより有意に少ないと認識している)

実際に1日の中で、「暇をもてあましたり、ボーっとしている時間」というものはほぼゼロと言ってよいほど活動しているはずなのですが・・・

どうも自分達から見える「他人」の活動というものは、入手する情報が全体的に抱えている匿名性に起因する”1人の純然たる個人による結果かもしれないし、殆ど似たような特性を持つ数千人の集団の合計かもしれない”というきわめて曖昧な解釈の下でしかうかがい知ることが出来ていないのかな?と感じています。
出来る限り個人一人一人の活動そのものの量、方向性、質について考慮してみると、自分達の活動はあくまで「二人(D型、E型)の連携はあるが、基本的に一個人は一個人である」という分量であるとは考えていますが、他人についてはそれこそその人の1日を丸々追える訳ではないので断定は出来ないのですが、どうやら実際に一人の人間が先に書いた活動内容を全て個人で行っているのかというと大いに疑問が湧く状態です。

メタファーという単語は余り好きではないので多用したくないのですが、他人の行動内容を見ていると、殆どの部分に概念としてのメタファーが入れ子状態でがビッシリ詰め込まれている(張り付いているの表現がしっくり来るのかなぁ?)ため、”独立した1個人”として考え行っている活動というのは極めて少なく、逆に同じメタファーを共有している大集団からは、例えその人自身がその集団にただ所属しているというだけでも、その集団が行っている行動の結果全てを、あたかも1個人が行った結果であるかのように見せることが非常に多いような気がしてなりません。

これは極端な話になってしまうかも知れませんが、自分自身が”何もやっていないのではないか?”と感じているその瞬間にも、決してボーっとしているわけではなく色々な物事を実行したり考えたりしているのですが、それが”社会が欲している行動・思考ではない”という一点だけで全て棄却されているという現実問題からダメージを受けてしまっているのではないかと思えて仕方がありません><

何かに所属して概念をメタファーとして共有する、という行動は社会を形成し、効率的な活動を行う上で必要不可欠なものだと思っていますが、それを行いすぎる余り、自身の存在を社会に融合させながら「社会の長い手足」として生きていくのは、”個体”のある生物としてはいかがなものか?と感じてしまうのです。

※単語の使い方に誤りがあったらゴメンナサイ;