今までやってきた事と、やり残した事の狭間で

いつものD型のDumpLogです。

2013年も半ばを過ぎようかという時節になってきておりますが、一向に体調不良が改善いたしません・・・

例年だと2ヶ月~3ヶ月ごとに好調な時と不調な時が交互に出現するパターンが多いのですが、今年は1月頭っから6月下旬の今頃まで殆ど不調な時期で占められてしまっています><
幸いまだ肉体的ダメージ(打撲や捻挫、骨折など)を負っていないため、そこらへんの自傷的な行動を慎んでいるしわ寄せなのだろうか?などと身も蓋も無い考えがぐるぐる回っている今日この頃です。

・・・本当に珍しいことなのですが、6月の中旬に入る辺りから、「もうどうでもいいんじゃないか」とか「いっそ何も考えず、楽しいことだけ追いかけようか・・・」などと考えてしまっている状態がチラホラ発生してきてしまっています。

こんな状態は約8年前(もうそれだけ経過するのか!)に鬱病を発症した当時と、3年前に現在の仙人のような生活を営むようになる付近に僅かに存在した程度で、日ごろはまず真っ先に生き方の選択肢から除外していたはずだったのですが;


D型自身としては、上記の二つの吹き出しの概念については”過去と未来を放棄する発想”として、長らく思考の格闘相手になっています。(ほかの人はどうなんだろうか?)
これは、自分自身が好きな物事を整理していったときに見つけ出した共通点だったのですが、”制約条件を多く課されている状態”で、”その範囲内をギリギリまで見切りながら作り上げた物事”に合致するモノに興味を惹かれることがかなりの割合を占めていました。
単純に自分の置かれていた境遇がそれに近かっただけ、もしくは時代のブームがそうだっただけだという問題なのかもしれませんが、音楽はCD-DA音源になるまでのゲームミュージック(とりわけFC後期やPC-88、PC-98が多い)や1ドットずつ打ち込んだり、そもそも色が16~256色で描かれていたグラフィック(こちらはSFC中後期がメイン)が殊更好きなのです。
しかも出来ればアレンジやリマスタリングされたモノではなく、当時の実機で稼動していた原曲や実グラフィックのほうがより重要だと思っています。

もし後の世の中にそれより良いとされる代替物、若しくは自身の再編物があったとしても、”たとえ不完全であってもその当時の技術力や創造性・その他もろもろもの制約下で発表を決意した結果”だとして、オリジナルの物はそれらとは別途評価すべきだと思うのは、ともすれば単純な懐古主義者と混同される状態ではあるのですが、自分からすれば、逆に当時の物事の再編を安易に繰り返すような状態は、”新しいものを作り出そうとする気概が薄いのでは?、または当時の物事を中途半端な気持ちで作り出したのか?”と感じて仕方がないのです。

これは自分自身の活動基準としても機能しており、例え今から思えばひどく不恰好だったり、もっとマシな選択があったのではないか?こうすればよかったかなぁ?と思い悩んだりしたとしても、”その当時の自分””考えあぐねて出した結論や結果”であるならば、それは無闇に無かったことにしたり否定したりしてはいけない、きちんとした物事であったと受け止めるようにしています。
勿論創作活動でもこの考え方が基本となっているので、いたずらに過去の作品を持ち出したり、忘れ去ったりするのではなく、それらはその都度「描きたい!」と思った内容を時間や肉体、精神を削りながら作り上げた一連の作品だとして、さらに新しいものを創造するように毎回悪戦苦闘しています。
古い作品の中にも、「今より出来のよいやつがあるじゃないか!」と今の腕前にガッカリしたりするときもありますが、その当時とは一つの作品を作る時間が3倍ぐらいまで引き上げられている上、表現能力も増えていて、何より大失敗が発生しなくなっているという事実をきちんと受け入れるべきなんだなぁとふっと考え直したりしています。

平たく言ってしまうと、「今までやってきたことはやってきたこととして切り分けるが、それでもやり残した事柄が沢山あるので、やり残したことがなくなるまで出来る限り考え行動し続ける」ということなんじゃないかと思っています。


※上手く文章が組み込めなかった部分について別記しておきます。

 制約事項の多い状態での物事の試行錯誤が好きなのですが、似たような事例で逆に余り好まない部分もあって、”見た目は制約事項を満たしているが、詳細に調べると、その世界の基本基準未満のバラバラな要素をモザイク状に組み立てて、結果的にそれっぽく見えてしまっている”物事に関しては一貫して否定的な感情を抱いています。
 恐らく”その手法をとってしまうんなら、世界のあらゆる物事をそのバラバラな要素の機械的な組み合わせ+偶発的な成果待ちになってしまう”という危惧があるからなんじゃないかと考えています。
 あらゆる組み合わせに関して可能性を捨てるわけではないが、その世界が成り立っている基本原理まで無視するようなやり方は、その世界での活動に根本的限界を向かえた時のあくまで最終手段だと思うのです。D型としては、どんなものでも、そこにあるからにはそれなりの理由があるはずというのが基本的な物事の捉え方です。