歪んだ”努力”至上主義がもたらす不条理

自分が現在の精神疾患を患う前後から非常に気になっている概念がある。

所謂「苦労自慢」や「根性論」に代表される、「物理的にどれだけ苦労したかによってその対象行動の価値を決める」というものである。

もう10年近くも前からということになってしまうのだが、残念ながら現在進行形で状況は悪化の一途をたどっている。

確かに自分自身でも、物事の成就、成功の影には人知れず行われている”努力”や、苦境に陥ったときにでもその場に踏みとどまって結果が出るのをじっと待つ”根性”といった概念は必ず潜んでいると思っている。

しかし、現在のソレは、非常に捉えられ方の概念が歪んでしまっている。
具体的には、「見た目に分かりやすく、かつ物理的に苦痛を伴うような苦労をすればするほど良い行動である」という概念である。

物事の達成方法にはそれこそ多種多様なアプローチ方法があり、一見苦労していないように見えていても、
「不都合が表面化しないように自己やリソースを適切にコントロールしながら、成果をキッチリ残す」
というやり方もあるだろうし、逆に、
「リソース管理を怠っていた結果として、不眠不休で作業を行わざるを得ない状況に陥った挙句、何とか形だけでも成果が残る」
というケースもあると思う。

自分自身としては、この両者を比較した場合、前者の行動概念に立脚した成果を、その過程まで含めて評価するべきだと考えているのだが、どうも現在の社会では何故か後者の行動をやたらと評価する傾向が強いと感じている。

後者を前者より評価する形になってしまうと、極端な話、「下手にリソース管理能力があり、物事を適切に判断しながら随時消化していく」という場合よりも「リソース管理能力が無いがために、毎度毎度見た目に分かる苦労を伴わないと何も出来ない」という場合のほうが評価対象にされてしまうという極めて不条理な状況になってしまう。

本来ならば、個人の能力のある・なしによらず、その当人が抱えているリスク、使えるリソースに応じて行った行動の結果を、その過程まで含めて「ある物事について結果を出す」という見地から平等に(ここでの平等は内容の平等を指しているのではなく、機会の平等である)判断していかなければならないのではないか。

現行の社会では、どうも”努力”のありようを”定式化(他人から見た目に分かる苦労をしていること=努力)”してしまっているが故にに、その人個人個人が別途有している”努力の方法・方式”を無視した形で何事も評価しようとしているのが、現在の不条理さを作り出している一因ではないのだろうか。

たとえ目に見えづらい形であっても、真に努力している人は日々努力を積み重ねて行動し続けているものだと感じているし、その逆で苦労自慢ばかりする人達が、その実殆ど何も結果的に行動できていないという事実を数多く見てきているので、自分自身もその概念と格闘しながらも、少しでもこの歪んだ努力の価値概念を治して行きたいと考えている。

・・・世の中には、黙々と日々の作業をこなしているように見えても、その内面で激しい葛藤と戦っている人が居て、それは決して否定されるものではなく、むしろ自身の苦労自慢(大抵が徹夜自慢だったりする)だけを振りかざしながらダラダラと仕事をする人達のほうに問題があるのではないかと思うのです。