人の”処理”できる情報量には明確な上限があるのかもしれない

どうもダイです。
ここ2週間ぐらいずーっと頭を悩ませていた事項を出来るだけまとめてみようと思います。
・・・この考え方自体は10年以上前からあったのですが、とりわけここ2,3年で違和感が急激に強くなってきたのと、2013年に入ってからはあらゆるところで自分自身の思い描いている状況と明確に異なる、体感的には「明後日の方向」に物事が向かっているように感じて仕方が無いというのがこの記事を何とかどこかに残してしまいたいと感じる原動力になっています。

 我々(自分やE型も含むあらゆる人)が普段から意識的・無意識的に入手している”情報”には、文字や音、色や形のほかにも臭いや感触、さらには空間の配置や時間の経過などが、それこそあらゆる物事に対して事細かに、かつ膨大に含まれている
 その莫大な”情報”を、我々はあらゆる時間に対して受け取り続け、自身の能力や自由に活動できる時間を利用してそれを分析・理解し、この情報が自分自身に対してどういう変化を与えるのか、またそれが他者に対して、さらに自身の所属する集団に対して、それが広がって社会全体に対して・・・という形で、最終的に「どういった形でその情報がどこに・どれほどの影響を与えていくのか?」について考えていくものであると考えている。

 この「人間の一生涯(人生)のある時期・状態において、時間をかけて何かを考える」というのは、時代背景やその人の置かれている状況にかかわらず必要な事柄であり、所謂”人間性””社会性””相互理解”といった概念の基本的な構成要素になっているのではないだろうか。
 自分の考えている範囲では、とりわけ産業革命以降の「ある社会の中での役割そのものの分業化」が進んだ世界では、最早人が一人だけで誰とも関係を持たずに日々を過ごすことは実質的に不可能なレベルになってしまい、如何にしてその生物としては脆弱な環境の無数の組み合わせによって発生する現代的な意味での”効率のよい世界で”個人個人がお互いの存在を認識し、関係を明示的に深めていくことの基本的事項であると考える。
 特に社会システムが大きくなるにつれて、”自分では直接見たり触れたり出来ない場所の物事”に対しても考えを巡らせないと、一時は良くとも長い時間で見てみれば自分自身を含むシステム全体を破壊してしまう危険性があるため、少なくとも時系列的に昔と比較して、物事を考えるという行為が軽んじられるべきではないと考えている。

 そこで、”思考速度”や”判断速度”そのものについて考えてみる必要があるのだが、個人的な体感であり根拠に乏しいのではあるのだが、
 時代や文化に対して極端な差は無く、むしろ生物としての人間の構造(脳構造など)によってかなりの部分が一意に決定されるのではないかと考えてしまう。
 努力や経験によって埋められる・追加できる部分は確かに随分あるとも感じるのではあるが、それをもってしても、五感全てに対して、さらに自己と他者の関係性まで含めた総合的な感覚・処理の能力ということになると、どの文化でもその総合計には10倍も100倍も大きな差があるとは思えない。

 ある時代やある文化に対しての成立背景やそこで起こっている事象についての研究は、それこそ文化人類学や考古学・歴史学に詳しいと思うのだが、そこで研究できているのはあくまで”記録に残っているごく一部の情報”に関してのみであり、そこからある程度の思考背景や人々の日常について概算でまとめることが出来るが、実際に”その人個人(もしくは集団)””1日24時間(当然文化によって感覚は異なるが)””1年365日(同左)”つまり日常の事細かな全ての状況における人間の情報の入出力・思考や価値判断については、まだ研究されていないか、全体を研究するのにはとてつもなく膨大な時間を必要とするため実質不可能である可能性もある。
(この辺は専門の研究状況などを全て把握できているわけではないので、間違っていたら申し訳ない・・・)

 結果的に自分自身が今考えていることは、各文化や時代における人々の考え方や行動の仕方の変遷は、”一方的な能力の向上”というスカラー量的な話ではなく、人間としての各種能力や生存環境によりある程度決定される”処理速度の根本限界”を”どうやって社会生物として上手く帳尻を合わせていくか”というベクトル量的な概念におけるバランスの取り方の模索の結果として生み出されてきたものではないかということである。
 基本的には、”どこかに集中して感覚と考える能力を割り振る”と、”それ以外の感覚で物事を捉えるのが雑になったり難しくなったりする”というものであり、そのうちで”考える時間”自体は全体の”処理速度の根本限界”を支える大きな柱だと考えている。

 ここで、自分自身のこれまで生きてきた年数(高々30年少々ではあるが・・・)、自分自身と、実際にほとんど同じ時空間を共有して生きてきた、一卵性双生児の弟(試作E型)と、色々な物事に対する認識をつき合わせてみると、

「表層的に物事を入出力する機会は1年ごとに増え続けている」
「とりわけネットワークインフラの発達する前後で爆発的に機会も実際の頻度も増えた」
「ただし、物事を根本的に考える”時間そのもの”は、入出力の機会に反比例するように短くなっていて、認識内容もきちんとしたスートではなく穴抜けが多くなっている」
「特にこの10年程度で考えてみると、”一部の認識を意図的に欠落させる”事で”見た目の反応・処理速度”を向上させている印象が強い」
「その関係で表立って存在している情報(主に文字・音声など)をつなぎ合わせると、とても連続した時間軸で行われているとは考えられない量の多少・時間空間における不連続さがあちこちに見えてしまう」

といった違和感をお互いに感じる状態になっている。

 自分たちは出来る限り”小さいころから引き継いでいる肉体・精神活動を出来る限り維持しながら生活する”ことを目指しているが、それでも現代生活においては1日24時間という絶対的な制約と肉体と精神のバランス(肉体を維持・強化している最中はあまり精神活動が行えないなど)から、小さいころと比べてより知識を身につけ、出来るところは訓練をし、知恵を身につけ、何か情報を発信できないかと考えて少しでも実行できるようになったのだが、反面運動能力は肉体の成長速度より遅い発達・もしくは成人周辺から緩やかに下降しており、日々肉体の不調(主に激しい疲労感)と精神の不調(猛烈な不安に駆られたり・人と話をするのがとてつもない重圧となる)と格闘することになってしまっている。

そしてとりわけ社会人になった後から痛感する事柄であるのだが、日本文化圏においては、少なくとも1945年以降(現在の日本国成立以降)、”社会(とりわけ企業体)に対する労働”に割く時間が他の文化圏と比べても特筆して多く、その分”自分の所属している集団「以外」”について何かを考える機会というのはかなり少なかったのではないだろうか。

 特に顕著な部分だと感じているのが、ここ2-30年の”モノあふれ”の状況である。
現在日本で受けること・入手することの出来るモノ・サービスなどは非常に多くなっていて、実際誰でも時間・場所を選ばずにあらゆる選択肢を選べるようになってきているのだが、人間そのものの持つ”1日24時間、1年365日を寿命まで”という時間感覚はこの2-30年では高々1.2倍にも届かない程度でしか伸びてはいない。
それに対してモノの数は同じ年月で体感で10倍以上、サービスはそれこそ小さなものまで数えたらキリがないほどの係数で膨れ上がっていると考えられる。
そしてモノおよびサービスを利用することによって消費される”時間”については、同じ時間の推移では、変化の少ないものではほぼ当倍、差が激しいところでも1/20程度、平均してみると細かい計算は省略するが1/4~1/5程度に短くなっている程度だと見積もることが出来ると考えている。

 すると、モノは当時より10倍~それ以上に膨れ上がっているのに、それを消費できる時間が超寿命の恩恵を考慮してもせいぜい1/6~1/7程度にしか縮まっていないため、「モノはあってもその全てが誰かの手に渡るわけではなく、そもそも誰も買えない事態も発生し、たとえ買ったとしてもそこまででストップしてしまい、適切な使い道で消費することが出来ない」という状況に陥ってしまっているのではないか。

当然モノやサービスを提供する側は、それを作り出すことを生業としている以上、商品の循環率が100%を大きく下回ってしまうというのは致命的な問題であり、短期的には物価に対する給与の減少という形で問題を先送りにして、ある程度根本的なアプローチとして、無理やり循環率を引き上げようとするか、さもなければ不当な競争が発生することによって、モノを作り出す側も使う側も、その生産・消費意図とは関係のない、特に時間にまつわる部分の帳尻を無理やり合わせこむ形で半ば強制的に利用させられてしまうという事態が発生しているのではないだろうか。

・・・うーむ、話が飛びすぎているような気もするなぁ;

自分自身が今考えていることとしては、タイトルから翻って「何かを明確に考えながら使用しているように見えて、その実ただの”長々とした何か”を盲目的に反復しているだけではないか?」という事柄や、別な話との組み合わせになってしまうけれど「もっと横断的に物事を考えていかないと、最終的には縦方向の構造以外の部分では”騙しあい”による不審の連鎖から来る差別や偏見、または潰し合いになってしまわないか?」というものなのですが・・・
それを説明するには文章能力も体力も足りないという体たらく。

こんな文章でも多少何かを感じ取ってくれれば幸いなのですが、これは自分自身は訓練していくしかないなぁと考える次第です。